見えない事実

 感染症拡大予防の為、ミサは月に一度だけ参加できる集会になった。

 年齢を重ねた分かち合いグループの参加者は、感染の不安から半分に減っていた。

 集まれば、やはり年齢相応の話で盛り上がる。

 歩いていて、簡単につまずいて転んでしまうと、誰かが言う。すると誰かが、先月横断歩道で転んだ話をする。また誰かが筋力が低下している話となる。

「私なんか、階段から転げ落ちてしまった事があります。骨折はなくて捻挫で済んだけれど、周りに人が沢山居たので、あまりに恥ずかしいから全然痛くない振りしてタクシーに乗りました。」「階段、、」という所でみんな驚いている。だから、タクシーから降りてから、また60段の石段を登らなければならなかった事は、言わずに置いた。

 その時は、タクシーに乗車するだけでも大変だったので、運転手さんが「大丈夫ですか、」と声をかけてくれた。

 石段の下で夫に電話をした。そして、60段の石段を「申し訳ない。」と言いながら背負ってもらった。「いやぁ全然大丈夫だよ。」と軽々と登る夫。あれは、もう20年以上前の事だから、お互いずいぶん若かった。

 

 今日は、参加者が少なかったので混雑もなく聖堂に落ち着く。正面に見える10メートルのステンドグラスには、一面にぶどうの木が描かれている。その絵が美しいととても美しいと思った。

 音楽が流れて来た。録音したものであるため聞きづらい。くぐもった音はメロディーからすると「神の愛に希望を置く者の上に~♪」と言っているようだった。そこだけが聞き取ることが出来た。

 ああ、懐かしい音楽だ。昔は、声を張り上げて歌ったていた。今また私は、希望を見い出そうとしているのだ。と思う。

 昔、通っていた教会では、先唱や朗読の奉仕をしていた。会衆や司式とのタイミングがずれてしまわない様に常に緊張を強いられていた。

 ゆっくりとミサに与りたいものだ。と思っていた。その願いは今日、叶っている。

 今日は、「行先も知らされずに、しかし希望を持って、リスクを持って外へ出よう。」そう呼びかけられていた。

 帰り道に寄ったお店では、「こんにちわ。今日は蒸し暑いですね。麦茶をどうぞ。」と勧めて下さった。

 聖家族の白いイエスが、くっついて眠る白い飼いネコの様だった。そう話すと店員さんは、笑った。

 話していると、店員さんは私の近所に住んでおられる事が分かった。コロナが収まったら早朝の祈りに参加させて下さるとの事だったので名刺を渡した。

 切れていた線が少しずつ繋がって来た。