思い込み

 夕方、玄関のチャイムが鳴った。たいがいは、居留守を使うことにしているが、何げなく「はーい。」と返事をしてしまった。用心してドアチェーンを付たまま細く開ける。

 すると長身の男性が「大家さんですか?」と尋ねた。

 「いいえ違います。大家さんは、お隣です。」と答えて済んだ。

 少しすると、今度は〝コンコン〟と拳で鳴らして来た。

 (またか、うるさいな。)と思いながら私は、読みかけの本を置いて、また重い腰をあげる。

 男性は、「大家さんが、居ない様なんですけど、」と言うので「仕事に言って居るんだと思います。」と答えた。

 すると今度は、警察手帳を見せて「3階の人を知りませんか?」という。私は、その階の人だけは、話した事が無かった。「知りません。」それだけで終わった話だった。

 その後、数年前の出来事を思い出した。

 

 朝5時にチャイムが鳴り、玄関を開けると警察官が立っていた。用事を聞くと、〝近所から騒音の苦情が出ている〟という。テレビを大音量で観ているため、ご近所が警察に通報したとの事だった。

 私は、早朝5時に起こされて、そんな言いがかりを付けらるなんて思いもよらない事だった。まるで悪い夢を見ている様だ。これは悪い夢なのかと思った。

 しかし、警察官は本気で私を犯人だと思っているらしい。「テレビは観ていません。」という私を信用しない。

 私は、悪い夢であると思ったが、「家にテレビが無いんです。持っていないんです。」と訴えていた。警察官は、さらに信用しなかった。

 私は、「あなたは本当に警察官ですか?」と聞くと警察手帳を見せた。私は、仕方がないので部屋の中を確かめてもらう事にした。

 当然、テレビは無かった。すると今度は、パソコンを指さして「これです。」と言う。

私が「どうゆう事ですか?」と尋ねると、警察官は「あなたがこれでテレビを観ていた。」と言う。

私も負けずに「パソコンは、閉じているじゃないですか!」と訴えると、「それはあなたが、消したからです。」と自信満々で言う。

 このやり取りに、私はいつまでたっても悪夢から醒めなかった。

極めつけは、帰りがけに「書類送検します。」という警察官の言葉だった。

私は、怒り心頭に達していた。もう一度「あなたは本当に警察官ですか?」と叫ぶと、また警察手帳を見せた。私は、何もして居ないのに犯人にならなければならないのだろうか?夢の中とは言え、引き下がれない事だった。

 それで「私は、あなたを名誉棄損で訴えますよ!」と言って警察官の所属と氏名をしっかりと記憶に留めた。それは、一度言ってみたい言葉だった。

 私の怒りは大噴火寸前だった。それで、だんだんと声が大きくなり、隣の大家さんを起こしてしまった。

 大家さんが間に入り「この人は、朝早く仕事に出て行って、夜に帰って来る。静かに暮らしてますよ。テレビの音は、他の人じゃありませんか?」と穏やかに話し始めた。すると警官は、何かに気づいたらしく、「もう一度署に確認して来ます。」と言って出て行った。

私は、警察の思い込みの酷さに驚いた事を大家さんに話した。すると大家さんは「それが警察の仕事だから。」とあっさりと言われた。

 少しするとその警察官が再び現れた。私の部屋に電気が付いていたため誤認してしまったのだそうだ。そして警察帽を取って「申し訳ありませんでした。人間なので間違う事もあります。すみませんでした。」と深々と頭を下げた。40代の男性警官だったが、その時の丁重な謝罪の姿勢と頭頂部がペコロス様に禿げ上がっている事が記憶に残った。

 その後、テレビの騒音は聞こえて来ない。数年後、ご近所さんにそのことを話すと「あのテレビの音は気にならなかったの?」と聞かれた。

「いいえ気にしてませんでした。」と答えた。私はいつも何かの締め切りに追われる様に生きている。その時もレポートの事で頭がいっぱいだった。夜にレポートを書こうと思いながら、疲れて消灯もせずに眠ってしまった。そしてうす暗い夜明けに、明かりが付いていたため疑われてしまったのだ。

 昨日、警察手帳を見せられたが、あれは本当に警察官だったのだろうか?疑うときりがないが、不快な思いが澱の様に心の底に沈殿している。

 何が起こって居るのか、分からない。

 悪夢が、いまだに醒めない世界で暮らしてるようだ。

 これもまた思い込みだろうか。